2003.5.16
最近、意気消沈することが次々と起こる。イラクではアメリカが圧倒的な力を見せつけて国際政治とは結局は力のルールであるという実も蓋もないことを白日の下にさらしてしまうし、北朝鮮が怖いことを言い出しても日本はなんにも出来ないし、景気低迷が続き経済的にも日本の存在感は希薄化する一方だし、それなのにマスコミは白装束集団がどうしたこうしたと言うことにしか関心がないみたいだし、気分が落ち込む。
国際政治で日本の身の程を嫌と言うぐらいに思い知らされた以上、せめて日本は「町人国家」でもいいから経済的な存在感を取り戻すべきと考えるのは自然な成り行き。でも景気は一向によくなる気配を見せない。デフレスパイラルが進行している。このデフレは高すぎる日本の物価水準を国際的に平準化する過程であり構造的なものであると言われる。確かに日本の給与水準はアメリカに較べても高すぎる。この程度の調整であるならそんなに時間はかからない。でもお隣の中国と賃金水準を「平準化」するとなるとこれはたいへん。だとすると10年ぐらいではデフレは止まらないことになる。
もちろん国際物価の平準化だけを考えるなら、デフレばかりがその調整の方法ではない。物価とは為替を通して国際的に比較するものであるから、為替を円安にすれば実際に国内物価を下げなくとも(デフレにしなくとも)国際的な物価の平準化は可能である。ではそうしてそれをしないのか。技術的に出来ないとかの議論の前に政治的な価値観の問題からこうした手段は採らないとする隠された政治的意図が存在するのだ。構造調整という奴だ。小泉さんと日銀はデフレによってしか構造改革が実現しないと信じているようなのである。デフレで非効率的な企業は淘汰されるし、賃金水準も押さえられるし、歳入が減るので歳出を絞らざるを得ないので国家の関与は自ずと小さくなるし、地価や株が下がるので戦後のバブルで儲けた勝ち逃げ組からの資産収奪は進むし、経済全体の生産性が上がり、やがて日本は国際競争力を取り戻すというシナリオだ。
でもこの日本の「構造」というものは戦前から連綿と続くものだ。弊害も目立っているので直した方がいいとは思うが、そんな簡単ではない。まさしく一朝一夕に出来るものではなく長期的課題だ。デフレを通じて構造調整をするとなると、結果は素晴らしいものとなるにせよ、たいへんな時間がかかる。ケインズが「長期的長期的というのは結構だが、長期的には我々はみんな死んでしまう」と喝破したことを思い出す。誰が長期的に生き残り「素晴らしい結果」を享受できるのか、事態は「長生き勝負」の様相すら呈している。老い先短い老人はとてもこの勝負に勝てそうにない。
さらに勘ぐれば、この「長期戦」にも隠された政治的意図があるように思える。デフレが長引いた方がいいと考える合理的な根拠もあるのだ。世代問題である。頭のいい人が繰り返していっているように戦後日本の混乱した教育を受けた世代は団塊の世代として知られるが、これが問題の世代と言われる。いろいろの問題含みの性癖が指摘されている。でもあと数年不況が続くとこの世代は早期退職とか定年退職で現役から引退することになる。景気がよくなってしまうと天下りなんかやりそうだからかえって不況の方がいいのである。そうなれば社会の生産性は格段に上昇する、とエライ人は考えているらしい。
経済活動とはいつでもコインの両面である。いいことがある反面悪いこともあるし、逆に悪いことが続く中でもいいことも起きているのである。酒が半分入ったコップを見て「もう半分しかない」と考える人は悲観論者で、「まだ半分もある」と考える人は楽観論者である。わいわい言っても騒いでも事態は変わりそうにない以上、同じことなら楽観論者として気楽に考えたいものだ。デフレにもいいことはあるのである。
2003年5月16日金曜日
2003年5月14日水曜日
Le Monde : 野獣の友ブリジット・バルドーは人間の敵
2003.5.14
ブリジット・バルドーはまだまだ元気で過激な言動を止めていない模様。人間歳をとると丸くなるのが普通ですが、彼女の場合は逆ですね。人間より動物の方がお好きなご様子です。
Brigitte Bardot, amie des bêtes, ennemie des hommes (2003.5.13)
野獣の友ブリジット・バルドーは人間の敵
68歳になったブリジット・バルドーは、もはやどんなに批判されても怖いものなしであり、最新の『沈黙の叫び』という本の中ではまたしても人にショックを与えるようなことを書いている。彼女の『回想録』第二巻の発刊から4年、この人間嫌いのスターは「極端な告白」で「私の書くことが大嫌いな人たちを頭に来させる」ことを事前に楽しんでいるかのようだ。「人類」一般に対する憎悪や特にイスラム教徒の侵略に対する憎悪などと共に、「職業的」失業者や「何もしないでぶらぶらしている」若者達や「この20年間の荒廃の責任者である」左翼に対する悪口がさんざん書かれている。
みんなが彼女を黙らせる前に言っておこうということか、この緊急の「最後の叫び」で、「多分表現の自由」というものであろうが、バルドー女史は政治家と評論家の立場から、同性愛者やホームレスや「教会を冒涜し教会を豚小屋に変えてしまった連中」を口汚く非難する。
レストランでロブスターを救出
このフランスの「堕落者」リストの中には、死刑を復活させるべきだと彼女は主張しているのだが、「ひげを剃らずに脂ぎった髪で汚いシャツを着てよれよれのジーンズをはき泥だらけのバスケットシューズで学校にやってくる教員達」も入っている。彼女によれば学校は「堕落の中心」であり麻薬が蔓延しマリワナを吸うテロリスト達や避妊器具を大量に消費する連中の温床であるとのこと。
裁判所、政治、テレビ、バラエティー番組、財政、労働組合、映画・・・、例外はない。何でもかんでもぼろくそだ。「芸術は名実共に糞みたいになってしまった」し、現代文学は「国民的キンタマ抜かれ」だという。悪口を言われないのは、「上品なミシェル・ドラッカー」や「豪華なソフィー・マルソー」やジャン・マリー・ルペンぐらいなもので、ルペンは「風や潮にも流されず自分の信念に忠実」であるとのこと。
バルドー神話が生まれてから50年、このスキャンダルまみれのスターはこの「新世紀の最大の淫売を崇めて小児愛を名誉なものとしたような」風紀の自由化の風潮を告発するべきと素直に信じている。一方で「男性にはトップモデルの職業を選びエステで身繕いするような連中しか残っていない」とも言う。
このような罵詈雑言が延々と続くが10ほどの牧歌的な章もある。そこでは彼女が毛がいっぱいの動物や鳥や甲殻類に対して限りない愛情を注いでいることが述べられている。バルドー女史がレストランでロブスターを救出した話や、「愛ときれいな水を求めて歌を歌うカエル」の話や、飼っている大好きなマルセルとロゼットという豚は「きれいな水でシャワーを浴びることが大好きで愛情をかけてやらないといけない」とかいう話である。
Alexandre Garcia
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 13.05.03
ブリジット・バルドーはまだまだ元気で過激な言動を止めていない模様。人間歳をとると丸くなるのが普通ですが、彼女の場合は逆ですね。人間より動物の方がお好きなご様子です。
Brigitte Bardot, amie des bêtes, ennemie des hommes (2003.5.13)
野獣の友ブリジット・バルドーは人間の敵
68歳になったブリジット・バルドーは、もはやどんなに批判されても怖いものなしであり、最新の『沈黙の叫び』という本の中ではまたしても人にショックを与えるようなことを書いている。彼女の『回想録』第二巻の発刊から4年、この人間嫌いのスターは「極端な告白」で「私の書くことが大嫌いな人たちを頭に来させる」ことを事前に楽しんでいるかのようだ。「人類」一般に対する憎悪や特にイスラム教徒の侵略に対する憎悪などと共に、「職業的」失業者や「何もしないでぶらぶらしている」若者達や「この20年間の荒廃の責任者である」左翼に対する悪口がさんざん書かれている。
みんなが彼女を黙らせる前に言っておこうということか、この緊急の「最後の叫び」で、「多分表現の自由」というものであろうが、バルドー女史は政治家と評論家の立場から、同性愛者やホームレスや「教会を冒涜し教会を豚小屋に変えてしまった連中」を口汚く非難する。
レストランでロブスターを救出
このフランスの「堕落者」リストの中には、死刑を復活させるべきだと彼女は主張しているのだが、「ひげを剃らずに脂ぎった髪で汚いシャツを着てよれよれのジーンズをはき泥だらけのバスケットシューズで学校にやってくる教員達」も入っている。彼女によれば学校は「堕落の中心」であり麻薬が蔓延しマリワナを吸うテロリスト達や避妊器具を大量に消費する連中の温床であるとのこと。
裁判所、政治、テレビ、バラエティー番組、財政、労働組合、映画・・・、例外はない。何でもかんでもぼろくそだ。「芸術は名実共に糞みたいになってしまった」し、現代文学は「国民的キンタマ抜かれ」だという。悪口を言われないのは、「上品なミシェル・ドラッカー」や「豪華なソフィー・マルソー」やジャン・マリー・ルペンぐらいなもので、ルペンは「風や潮にも流されず自分の信念に忠実」であるとのこと。
バルドー神話が生まれてから50年、このスキャンダルまみれのスターはこの「新世紀の最大の淫売を崇めて小児愛を名誉なものとしたような」風紀の自由化の風潮を告発するべきと素直に信じている。一方で「男性にはトップモデルの職業を選びエステで身繕いするような連中しか残っていない」とも言う。
このような罵詈雑言が延々と続くが10ほどの牧歌的な章もある。そこでは彼女が毛がいっぱいの動物や鳥や甲殻類に対して限りない愛情を注いでいることが述べられている。バルドー女史がレストランでロブスターを救出した話や、「愛ときれいな水を求めて歌を歌うカエル」の話や、飼っている大好きなマルセルとロゼットという豚は「きれいな水でシャワーを浴びることが大好きで愛情をかけてやらないといけない」とかいう話である。
Alexandre Garcia
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 13.05.03
2003年5月8日木曜日
〔再録〕コーランに書かれている天国の処女達とは単なる白い果物のことだったのか?
旧HP「ルモンド抄訳」より。原文へのリンクは切れていますが、拙訳をお読みください。
2003.5.8
この記事ケッサクです。コーランは単なる聖書の解説本であったとするドイツ人学者の研究が波乱を呼んでいます。こういう研究は今までタブー視されてきたのでしょうね。こういう神聖化されてしまった文章は日本にも存在します。はい。何事においても客観的な姿勢が大切です。
Et si les vierges célestes du Coran n'étaient que fruits blancs ? (2003.5.6)
コーランに書かれている天国の処女達とは単なる白い果物のことだったのか?
博識な人(碩学)とは普通攻撃的な性格を有さないと見られている。とても普通の人には理解できない生死に関する難しい問題を一生懸命考えている人というイメージだ。だから彼等碩学の仕事は世界の現実には一切インパクトを与えることはないと考えられている。それは間違いである。実際に図書館の蔵書の下から引っ張り出した彼等碩学の発見がいま世界に大騒動を引き起こしかねない勢いなのだ。一番最近の例をとるとドイツのクリストフ・ルクサンブルグがコーランの言語について行った研究がそうだ。この人はアラビア語の文語及び方言の専門家で哲学者であるがシリア語と6世紀と7世紀にかけて広く使われていた「アラブ・シリア語」の権威でもある。彼はコーランがどの言葉で最初に書かれたのかを問題意識として研究した。
この問題意識は今更でもないという感じだ。もちろんアラビア語だ。しかしどのアラビア語であるかと言うことが問題なのだ。難しいことは、知られているコーランの一番古いテキストは子音だけで書かれていることから来る。ずっと後世になってから、具体的に何時どうしてと言うことは分かっていないが、母音が表記できる表記システムが完成され、発音の区別が正確にアラビア語で表記できるようになったのである。この問題はよく知られていることだが、この碩学はもう一歩踏み込んで、コーランの従来意味がよくわからなかったくだりを古代のアラブ・シリア語の語彙でもって解読しようとしたのである。結果は驚くべきことであった。例えばコーランのマリアの処女懐妊(19章、24節)のくだりでは、生まれたばかりのイエス・キリストはマリアを慰めるのだが、通常のコーラン正本では「悲しむとこなかれ。神は汝の足を小川の流れに入れたまう」と書かれており、意味不明であるが、アラブ・シリア語を使って判読すると「悲しむことなかれ。神は汝の出産を正当なものと認め給う」という意味になるのである。
もっと驚くべきことは、コーランで有名な天国の楽園の処女達とは単に葡萄の実のことであったとする解釈だ。(コーランに書かれている天国で待ち受けているという)「目が大きい処女達」とは「クリスタルのような白い果物」と読むべきとのことだ。自殺攻撃をするイスラムの勇士達はテロ実行にあたり(天国の処女達のために)局部を念入りに聖なる白布で保護して事に当たるというのに、これが単に葡萄だったとなるとたいへんなことになってしまう。もしルクセンブルグが正しいとなると、コーランとはシリア語で言う教則本であり、聖書に置き換わるものではなく、聖書を解説するマニュアルとして書かれた文書の一種であると言うことになるのだ。
ソルボンヌ大学教授レミ・ブラーグが雑誌「クリティーク」4月号で強調するように、この問題は科学的に広く議論されるべき時に來ている。もしこの仮説が正しいとなると、どんな大きな結果を引き起こすか想像できるだろう。碩学とは攻撃性を持たない無害な人たちではないことは確かである。
Roger-Pol Droit
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.05.03
2003.5.8
この記事ケッサクです。コーランは単なる聖書の解説本であったとするドイツ人学者の研究が波乱を呼んでいます。こういう研究は今までタブー視されてきたのでしょうね。こういう神聖化されてしまった文章は日本にも存在します。はい。何事においても客観的な姿勢が大切です。
Et si les vierges célestes du Coran n'étaient que fruits blancs ? (2003.5.6)
コーランに書かれている天国の処女達とは単なる白い果物のことだったのか?
博識な人(碩学)とは普通攻撃的な性格を有さないと見られている。とても普通の人には理解できない生死に関する難しい問題を一生懸命考えている人というイメージだ。だから彼等碩学の仕事は世界の現実には一切インパクトを与えることはないと考えられている。それは間違いである。実際に図書館の蔵書の下から引っ張り出した彼等碩学の発見がいま世界に大騒動を引き起こしかねない勢いなのだ。一番最近の例をとるとドイツのクリストフ・ルクサンブルグがコーランの言語について行った研究がそうだ。この人はアラビア語の文語及び方言の専門家で哲学者であるがシリア語と6世紀と7世紀にかけて広く使われていた「アラブ・シリア語」の権威でもある。彼はコーランがどの言葉で最初に書かれたのかを問題意識として研究した。
この問題意識は今更でもないという感じだ。もちろんアラビア語だ。しかしどのアラビア語であるかと言うことが問題なのだ。難しいことは、知られているコーランの一番古いテキストは子音だけで書かれていることから来る。ずっと後世になってから、具体的に何時どうしてと言うことは分かっていないが、母音が表記できる表記システムが完成され、発音の区別が正確にアラビア語で表記できるようになったのである。この問題はよく知られていることだが、この碩学はもう一歩踏み込んで、コーランの従来意味がよくわからなかったくだりを古代のアラブ・シリア語の語彙でもって解読しようとしたのである。結果は驚くべきことであった。例えばコーランのマリアの処女懐妊(19章、24節)のくだりでは、生まれたばかりのイエス・キリストはマリアを慰めるのだが、通常のコーラン正本では「悲しむとこなかれ。神は汝の足を小川の流れに入れたまう」と書かれており、意味不明であるが、アラブ・シリア語を使って判読すると「悲しむことなかれ。神は汝の出産を正当なものと認め給う」という意味になるのである。
もっと驚くべきことは、コーランで有名な天国の楽園の処女達とは単に葡萄の実のことであったとする解釈だ。(コーランに書かれている天国で待ち受けているという)「目が大きい処女達」とは「クリスタルのような白い果物」と読むべきとのことだ。自殺攻撃をするイスラムの勇士達はテロ実行にあたり(天国の処女達のために)局部を念入りに聖なる白布で保護して事に当たるというのに、これが単に葡萄だったとなるとたいへんなことになってしまう。もしルクセンブルグが正しいとなると、コーランとはシリア語で言う教則本であり、聖書に置き換わるものではなく、聖書を解説するマニュアルとして書かれた文書の一種であると言うことになるのだ。
ソルボンヌ大学教授レミ・ブラーグが雑誌「クリティーク」4月号で強調するように、この問題は科学的に広く議論されるべき時に來ている。もしこの仮説が正しいとなると、どんな大きな結果を引き起こすか想像できるだろう。碩学とは攻撃性を持たない無害な人たちではないことは確かである。
Roger-Pol Droit
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.05.03
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